「健康経営」のその先へ。ISO 25554を主導した浅野健一郎氏に聞く、「自社らしいウェルビーイング」とは

  「わが社のウェルビーイングは、うまくいっているのだろうか」。
そう考えたとき、多くの企業はまず正解を探しに行きます。けれど、探しに行く姿勢そのものが落とし穴なのかもしれません。

2024年に発行された国際規格「ISO 25554」。
地域や企業などのコミュニティにおけるウェルビーイング推進のガイドラインであり、策定にあたり、国内委員会の委員長として議論を牽引したのが、一般社団法人 社会的健康戦略研究所 代表理事の浅野健一郎さんです。

経済産業省の「健康経営」の立ち上げから関わってきた浅野さんは、なぜ健康経営を土台に、国際規格をつくったのでしょうか。

そして、企業が自社のウェルビーイングに向き合うとき、本当に大切なことは何でしょうか。
デジタルサンクスカード「GRATICA」を通じて、職場の「感謝」や「関係性」と向き合ってきた私たちが、改めてお話を伺いました。


浅野健一郎(あさの・けんいちろう)
一般社団法人 社会的健康戦略研究所 代表理事。もとは光通信デバイスを手がける研究者。企業内で健康づくりのプロジェクトに携わったことを機に、厚生労働省のデータヘルス、経済産業省の健康経営(健康経営優良法人制度など)の立ち上げに関与。ISO 25554 の策定において、国内委員会委員長を務める。

目次

「健康経営」のその先へ。ISO 25554を主導した浅野健一郎氏に聞く、「自社らしいウェルビーイング」とは

1. 「健康経営」から、国際規格へ

──まず、浅野さんがISO 25554にたどり着くまでの道のりから伺えますか。もともとは、健康とはまったく別の分野のご出身だと伺いました。

そうなんです。私はもともと、健康分野を研究してきた人間ではなくて、ずっと物理学をやっていました。光通信デバイスの開発が専門だったんです。
それがある時、健康関連の部署に移りましてね。当時はまだ「健康経営」という言葉すらなかったので、社内の健康プロジェクトとして始めたのが最初です。

活動が厚生労働省の目に留まって、ちょうど「データヘルス」(健康・医療データを活用した保健事業)が始まる時期でしたから、国と一緒にデータヘルスを広める活動に関わりました。
そうこうするうちに、今度は経済産業省が健康経営に取り組むことになったのです。
ごく初期の立ち上げから経産省と一緒にやってきて、健康経営優良法人の認定制度の設計にも携わりました。

──健康経営優良法人制度は、大企業から中小まで広く普及した仕組みですよね。設計に携わった立場から、あえて次をつくろうと思われたのはなぜでしょう。

制度自体は、非常にうまくいきました。大企業を中心に広く浸透し、中小企業でも今や2万社を超える企業が参加しています。ライバル会社と切磋琢磨する日本の文化にも合っていたように感じます。

ただ、開発に携わったからこそ見えてくる課題もあるんです。
健康経営優良法人は、「これをやっていますか」「あれはどの程度やっていますか」と、調査票に答えて優劣をつける仕組みです。

すると、一度うまく回答できた企業同士では差がつかなくなる。差をつけるために、質問をどんどん増やしていくしかない。今では100問を超える規模になっています。

構造上、続けるのが難しいやり方です。設問が増えても、ついていける体力のある企業にとってはいい取り組みなんです。でも、ついていけない企業は認定を取れなくなってしまう。

結果として、ついていける企業とそうでない企業の差が広がりやすい面もあるんです。そこで健康経営の施策が始まって5年ほど経った2019年に、別のアプローチを入れようと経産省と相談して、国際標準をつくることにしたんです。
ISOは、各国から一つの機関だけが代表として参加する国際標準化機関ですから、日本として臨む必要があります。手続きは大変でしたが、日本代表として策定に向かいました。

2. 健康経営とISO 25554の違い

──いま「健康経営に取り組んでいる」企業はとても多いと思います。企業から見ると、ISO 25554との違いは混乱しがちです。私たちは、健康経営が「何をやるか」のリストで、ISOが「どうやるか」のプロセス、と理解してきたのですが合ってますか。

まさにそのとおりです。そもそも両者は、競合させるためにつくったものではありません。
健康経営優良法人は、調査票という「やることリスト」に答えて成績をつける仕組みです。何をやればいいかは分かる。でも、どうやればいいかは書かれていない。

ISOは、やり方、つまり「プロセス」の標準なんです。プロセスは書いてあるけれど、やることは自分たちで考えましょう、という建て付けです。
やることは健康経営のリストから選んでもいいし、自分たちで「これをやりたい」と決めてもいい。だから両者は、競合ではなく補完関係にあるんです。

──では、「健康経営優良法人」と「ウェルビーイングISO(ISO 25554)ガイドライン認定」は、両方を目指すべきなのでしょうか。それとも、どちらか一方でもいいのでしょうか。

経営判断によりますね。両方取ってもいいし、片方でもいい。どちらも取らない、という選択だって経営判断として成立します。
設問についていける体力のある企業なら、健康経営を続ける意義は大いにある。一方で、やりきれない企業でも、「自社にとって重要だから取り組む」と社会にきちんと示せる。

ISOは、どんな企業でも自分たちの取り組みを可視化できる仕組みなんです。

3. ウェルビーイングは、「定義できない」

──調べていく中で、ISO 25554は「ウェルビーイングを定義せず、取り組む領域は各組織が自ら定める」規格だと理解してきました。捉え方として合っていますか。

方向性は合っています。ただ、正確には「定義しない」というより「定義できない」んですね。
ウェルビーイングは、個人によって、集団によって、文化や宗教、社会環境によって、まるで違う。誰にでも当てはまる普遍的な定義など、そもそも存在しないんですよ。

私自身の理解では、「よりよく生きるために、今、何が必要か」を考えること。それがウェルビーイングと捉えています。

──私たちはどうしても「ウェルビーイングとは何か、正解を教えてほしい」という反応になりがちです。

難しいですよね。全員が満足するウェルビーイングなんて、組織の中には存在しません。
だから、経営とまったく同じで、優先順位をつけて判断していくしかない。

しかもウェルビーイングは固定されたゴールではなく、個人や組織の状態が変われば、目指す状態もどんどん移り変わっていきます。
社会環境の変化に合わせて、調整し続けることが欠かせないんです。

言い換えれば、ゴールはありません。PDCAを回し続けること自体が目的なのです。
一度うまくいかなくても、「このやり方ではうまくいかない、と分かった成果」と捉えられるかどうかですね。7割の達成で「よし」とするかどうかも、自分たちで決めればいい。

健康経営がうまくいかない企業の根本原因は、たいてい、健康経営を経営と切り離して考えてしまっていることにあります。

4. 会社の目的と、働く人の幸せは両立するのか

──取材の中で、こんな声も聞きました。「企業は機能体で、そもそもウェルビーイングを目的に設計されていない。だから組織のウェルビーイングは実態と結びつきにくいのではないか」と。策定を主導された立場から、どうお考えですか。

気持ちは分かりますが、私は乖離していないと考えています。企業が「機能体」だという構造と、そこにいる個人のウェルビーイングは、別のものなんです。
そもそも従業員が会社で働く理由、たとえば生活の糧を得ることは、ファイナンシャルウェルビーイング(経済的な安心)そのものでしょう。

さらに、ウェルビーイングに取り組む企業は「働きやすい会社」だと認識され、優秀な人材を確保しやすくなる。売上や利益、生産性といった機能体としての経営目標に、しっかりと結びついています。

だからISO 25554は、個人のウェルビーイングを上げるためだけのガイドラインではないんです。組織が個人のウェルビーイングを高めることで、経営目標を同時に達成するための、組織向けのプロセス標準なんですね。
KPIは売上・利益・生産性でいい。個人のKPIとは別のもので、両方を見ていくことが求められています。ESG投資や人的資本開示といった外圧も、いまや経営マターです。

ウェルビーイングは人権の議論とも結びつき始めていて、レベル感が上がってきたものが、いまのウェルビーイング経営だと理解してもらうといいと思います。

5. 測ることが、目的化しないために気をつけたいこと

──ウェルビーイングは「測る」ことが重視されますが、一方で「数値を上げること自体が目的になってしまう」という懸念もあります。浅野さんは可視化に長く取り組まれてきましたが、どうすればこの状況を避けられるでしょうか。

大前提として押さえてほしいのは、測定や可視化は「PDCAを回すための手段」であって、「改善の手法そのもの」ではない、ということ。
満足度調査をして、数字を上げること自体がゴールになってしまう。よくある失敗です。

そこにISOで一石を投じたいと思っているんです。
ISOのプロセスに沿って取り組めば、測ることは目的化しません。あくまで、自分たちで決めた状態に近づいているかを確かめ、次の一手を考えるための手段として、測定が位置づけられるからです。

6. 感謝や関係性は、どこに位置づくのか

──私たちはGRATICAを通じて、職場の「感謝」や「ありがとう」の気持ちに着目してきました。感謝や人と人とのつながりは、ウェルビーイングの中でどんな位置を占めるのでしょうか。

感謝や関係性は、ソーシャルウェルビーイング(人とのつながりの面での豊かさ)の領域に位置づけられます。とても大事な要素だと思います。
人は、自分が認められていると感じられるだけで、力を発揮できるものです。感謝を伝え合える架け橋のような仕組みは、それ自体に大きな意味があると私は考えます。

そのうえで、ひとつだけ大切にしてほしい視点があります。感謝は本来、人の活動の結果として自然と湧いてくるもので、「感謝されるために何かをする」のは、順番が逆になってしまう。
もし感謝を促すツールが現場のプレッシャーになってしまったら、本来の意味を失ってしまいます。

裏を返せば、こうしたツールが必要とされること自体、いまの社会で人と人との関係性が落ちてきている、ということでもあります。だからこそ、意義がある。
ツールに頼らなくても、「あの人はいつもいい仕事をしてくれているよね」と自然に思える環境が理想です。
そこへ近づくきっかけとして、GRATICAのようなツールを活かしていけると、よりよいのではないでしょうか。

そして、ウェルビーイングは上から下へ落としても、従業員には響きません。従業員が素直に気持ちや意見を伝え合える環境と、それを引き出すファシリテーション。
そこにこそ、こうしたツールを活用した取り組みを行う価値があるのだと思います。

7. 健康経営のその先へ、これからのロードマップ

──ISO 25554そのものはガイドラインで、それとは別に第三者認定制度がある、という理解です。認定は、どういう企業が取るものなのでしょう。

この認定は、私たち社会的健康戦略研究所が、ISO 25554に基づいて第三者機関として行っているものです。
認定を取る必要があるのは、自社の取り組みを社会に対して可視化したい場合です。たとえば、優秀な人材を確保したいといった経営上の目的があるとき。
逆に、自社の中で活用するだけなら、認定は必ずしも要りません。国際的にも認定の枠組みづくりはすでに始まっていて、日本としても存在感を示していきたいと考えています。

──今後、規格はどう広がっていくのでしょう。

経済産業省のロードマップでは、「健康経営1.0」から始まって、最終的には「健康経営3.0」として国際ルール化することが位置づけられています。
ISOとしても、いまのガイドラインから、より詳細な事例集(テクニカルレポートなど)を経て、最終的にはMSS(マネジメントシステム規格)へと発展させていく構想になっています。

同時に海外展開も積極的に進めています。
特にASEAN(東南アジア)を中心に、日本が協力して各国の政府とISO25554の考え方に基づくウェルビーイング経営の取り組みの社会展開を試しているところです。

いわば海外でのウェルビーイング経営で得た知見を、日本に逆輸入していく構想です。
つまり、世界中のウェルビーイング向上の活動に関する知見を日本に集約させることで、ウェルビーイングを日本の強みやブランドとする計画なのです。
欧米が個人の力を核にする傾向があるのに対し、日本は比較的、チームや組織の力で成果を出すことに強みがあると言われます。

チームがうまく機能するためのプロセスを示しているのが、ISO 25554なんです。

8. 「自分たちにとってのウェルビーイングとは何か」

──最後に、これから自社のウェルビーイングを考える経営者や人事の方へ、メッセージをお願いします。

出発点は、たったひとつです。「自分たちにとってのウェルビーイングとは何か」を考えること。
全員が満足するものは存在しないので、経営と同じ感覚で優先順位をつけてください。ゴールはありません。

自分たちで合格ラインを決めて、次のテーマに進んでいく。大事なのは、一発で完璧にやろうとしないこと。
担当者が一人で抱え込んで無理をした結果、施策が形骸化してしまっては元も子もないので、まずはライトに回し始めることです。

そして、社会環境の変化に合わせて、目標も到達点も変え続けていく。それでいいんです。
答えを外から探すのではなく、自分たちで問い、試し、更新し続ける。繰り返しの中にこそ、ウェルビーイングはあるのだと思います。

9. まとめ

取材を通して見えてきたのは、ウェルビーイングは「正解を探すもの」ではなく、「自分たちで問い、始め、続けていくもの」だという一貫した考え方でした。

浅野さんは、ウェルビーイングを「定義しない」のではなく、「定義できない」とおっしゃっていました。
人や組織、時代によって変わり続けるため、唯一の正解は存在しないのです。
だからこそ、自分たちで優先順位を決め、PDCAを回し続けること自体が目的になる、という指摘が印象に残りました。

ウェルビーイングと経営を切り離さず、かと言って数値の達成を目的にもしない。この両立こそが、ISO25554が目指しているところなのだと感じました。

そして、私たちが向き合ってきた「感謝」にも浅野さんだからこその捉え方を教えていただきました。
感謝は目指すものではなく、活動の結果として自然に生まれるもの。だからこそ、それが自然に生まれる環境をどうつくるかが問われているのだと。

職場に流れる小さな「ありがとう」に目を向けることは、自社らしいウェルビーイングを始める、たしかな一歩になるはずです。

一般社団法人 社会的健康戦略研究所 公式サイト

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